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限りなき相互作用、デモ 본문
立誠劇場。October, 2015
(<<實踐文學>>, Seoul, Korea, November, 2015)
限りなき相互作用、デモ
權明娥(クォン・ミョンア)
翻訳:田島哲夫
1.経緯を語る
本稿は「日本についての話」ではない。日本専門家でもない筆者が日本についての語れるわけもなく、ここで語ろうとするのは日本の状況についての評論や分析ではない。本稿は一つの経緯と、もう一つの経緯が出会い、語りとなり、また続いて新たな語りの連続をつくりだし、そうした語りを交わす集合体としての「歴史」がつくられる過程についての一つの報告であり、断章である。この「歴史」は「私」と釜山、研究集団アプコムと日本、高円寺と東日本大地震、京都市役所前と戦争法案に反対するさまざまな形のデモをめぐる歩みから始まる。紙幅が限られているため、そのなかのきわめて一部のみを簡略に紹介したいと思う。
韓国にも多く紹介されているシールズ(SEALDs)のデモの現場を見れば、大学生たちが自己紹介をしてから意見を表明する姿を見ることができる。自分が誰であり、これまでデモについてどんな考えをもっていたか、政治についてや社会の変化についてどう考えてきたか、あるいはなぜ関心がないのか、ところでまさにそうした自分自身がどんな理由から今まさにここに立っているのか。彼らはなぜこうした語りをするのか。デモの歴史と縁遠い日本の社会において現在のように数万人が集い、デモが持続できた要因はいろいろとあるだろう。とりわけ重要な要因は、私が見るに、デモが自らの経緯を公的に語り、またそうして互いの経緯を交わす結びの場を多様に発明したところにあるように思える。
日本の国会前のデモに関する韓国の報道は、ほとんど空からカメラでとらえた数万人の群衆の写真を載せている。デモについて報道してこなかった日本の巨大メディアも主に数多くの人波に焦点を合わせていた。日本の巨大メディアがデモ隊が何人なのか「科学的な分析」を下しつつ、デモ主催者側の出した参加者数が誇張されたものだと躍起になっている姿は「デモ」についての巨大メディアとデモ隊とのとてつもない視角の差をあざやかに示している。
東日本大震災以降、首相官邸前と国会前に集まった人々、どこにも記録されなかったが、日本の全地域から集まってきた「原発再稼働反対」「情報公開」を叫んだ無数の人々、そして安保法案撤廃のためにあちこちから集まり、政府に向かって自らの要求を伝えた人々は「数万人の群衆」というような量的規模として合算できない。彼らは皆自分なりの事情と経験と履歴を通じて、また互いに自らの言葉を伝え聞くために集まりはじめ、依然集まっている。二万人なのか、二十人なのかが重要でない理由はそのゆえである。二十人が集まってもデモを続けているところが、今ここ日本でのデモがもつ重要な意味である。
立誠劇場。October, 2015
それゆえ本稿でも「私の経緯」をまず語ることで話を始めたいと思う。私が見、出会った「日本」は私の経緯を通じて続き、そうやってまた皆さんの経緯へと続き、あらたな語りと歴史を創りだすことができるからである。
ソウルのさまざまな人文空間と釜山を結びつける試み
ファシズムを専攻する研究者として長い間、日本はファシズムの研究資料を探す一つの「書庫」であった。対案人文学運動に関心をもち、また釜山へと居を移し、私にとって日本の意味は変わった。釜山に何の縁もゆかりもなかった移住者として釜山に根を下ろし、また地域の研究者らに根拠地となる対案空間をつくろうと、さまざまなモデルを探し求めた。そうして対案研究集団アプコムをつくった。アプコムは初め「生の半径を広げよう」を一つの志とした。それは根の深い地域差別の構造と学力差別が内面化された「地方大学」の研究者らと差別の壁を越えていく自己肯定の力をともにつくりたいからであった。ソウルのさまざまな人文空間と釜山を結びつける試みは半ば成功し、半ば失敗した。ソウルへの「往来」はチームのメンバーを疲れさせ、しんどくさせた。長い試行錯誤の末、この「疲労」が物理的な距離感からもたらされるものだけではないことに、どうにか気づくことができた。
歓待と「壁」
ソウルと釜山を往復する移動は逆説的に地域差別の構造的で心情的な「壁」を全身で病むことになった。ソウルの「友だちと仲間たち」はアプコムを心から歓待してくれたものの、歓待だけでは「壁」をのり越えることはできなかった。かえって歓待されているために壁を感じる「疲労」は、そっくりそのままメンバーらの「自分の問題」になってしまい、現実の壁をただ全身で病むしかなかった。
「クォン・ミョンア」という個人ではなく、アプコムの一構成員として行動すべきという強迫にちかい考えをもっていたため、メンバーらとのソウル疲れは私にそのまま転移した。否、ソウル疲れの理由はそれだけではなかった。膨大な資料を基盤とする研究と批評的実践とが「自然に」体質と化していたため、釜山でも初めはこうした類の研究と実践の場をつくった。しかし、ソウルでとは異なり資料を探すための時間的、物理的消耗があまりに大きかった。ソウルへ資料を探しに行くことは、地方とソウルとの格差を感じるに十分だった。また周りの先輩、仲間、後輩たちがどんな資料を何の論文に使っており、それは誰の論文の続編であり、どの資料が、どこでセミナーがあるといった協業と分業とでなっている学問の場は、ソウルのみが独占しているのだということを痛く感じた。
学問的介入、言説的介入のための文を書かねば、という私の叱咤に「学問の場、言説の場についての実感がない」という地域の研究者らの嘆きを実際自ら実感することができなかった。いまもその実感を私が同じに理解できるとは考えていない。また資料を基盤とした研究共同体をよりゲリラ的な批評的共同体へと転換したのはこうした理由が大きい。またアプコムのメンバーとともに「ソウルを訪ねること」をやめた。
高円寺、3・11 そして「革命のバタフライ効果」
そして日本の対案空間を訪ねる道に踏み出した。ソウルと釜山その他の地域の対案空間を探し歩いたやり方を踏襲した。ソウルの対案空間はよく知れれている方なのだが、釜山や地方の対案空間はそうではない。人の話や交換した情報を通じ、ようやく連絡先を探しだし、訪ねて行って会う。インタビューを通して記録し、彼らの活動を共有する。そうしていて初めて出会ったのが高円寺グループだった。高円寺グループをはじめとする日本の小さな空間を訪ね歩いているとき、3・11が発生した。東日本大地震が起きた2011年、アプコムはより以上頻繁に日本を訪ねた。外国人は日本から脱出するのに忙しく、韓国は日本に関する怪談(流言)であふれかえっていた時、私たちはできるだけ多く日本に行くことを選んだ。そこには私たちの苦境をともに分かちあえる友がいたからであり、なにより彼らが歩んでいく道をともにしたかったためである。
こうした個人的な話をまず語ることは、実際本稿において日本についての論議がいかなる脈絡を背景にしているかを少しく明らかにしておきたかったからである。日本の安保法制批判の現場については多くの論議がなされているのだが、「革命のバタフライ効果」とは論理的で客観的な知識分析とは異なる次元の地平を指し示すと思われるからである。安保法制批判のために数万人が国会前に集まり、デモを繰り広げている現在の日本の「奇跡のような」状況は、ある点においてそれぞれの経緯と経験が結ばれたからこそ可能だったと考える。
2.話を交わす集合体:新たな歴史を書くということ
歴史学者である小熊英二が監督したドキュメンタリー『首相官邸の前で』が2015年9月中旬、日本全国で公開された。産業映画の公開とは異なり、各地域のさまざまな場所で多様な形で「自主上映」を始めた。自主上映とは韓国の共同体上映と同じ形式である。日本は韓国のようにマルチプレックス映画館などは多くない。しかし所々に会員制で運営されている小さな独立映画館が未だ健在していると言える。京都でも2015年10月から立誠劇場で上映が始まった。立誠劇場は少子高齢化により廃校となった立誠小学校を改造した文化空間である。10月24日『首相官邸の前で』の第一回上映会があった。この日立誠劇場の客席は20代から80代まで、男女問わず多様な人々で埋まった。
2015.10月、立誠劇場
ドキュメンタリー映画であるにもかかわらず人々を映画を見ながらため息をつき、泣き、安堵の思いを分かちあった。小熊英二は『社会を変えるには』『生きて帰ってきた男』などで韓国でもよく知られている歴史学者だ。小熊英二はホームページでドキュメンタリー制作について以下のように明らかにしている。
私は、この出来事を記録したいと思った。自分は歴史家であり、社会学者だ。いま自分がやるべきことは何かといえば、これを記録し、後世に残すことだと思った。
映画を撮ったことはなかった。映画作りに関心を持ったこともなかった。しかし、過去の資料の断片を集めて、一つの世界を織りあげることは、これまでの著作でやってきた。扱うことになる対象が、文字であるか映像であるかは、このさい問題ではなかった。
いうまでもないが、一人で作った作品ではない。同時代に現場を撮影していた人びと、インタビューに応じてくれた人びとが、すべて無償で協力してくれた。
なにより、この映画の主役は、映っている人びとすべてだ。その人びとは、性別も世代も、地位も国籍も、出身地も志向もばらばらだ。そうした人びとが、一つの場につどう姿は、稀有のことであると同時に、力強く、美しいと思った。
そうした奇跡のような瞬間は、一つの国や社会に、めったに訪れるものではない。私は歴史家だから、そのことを知っている。私がやったこと、やろうとしたことは、そのような瞬間を記録したという、ただそれだけにすぎない。
いろいろな見方のできる映画だと思う。見た後で、隣の人と、率直な感想を話しあってほしい。映画に意味を与えるのは観客であり、その集合体としての社会である。そこから、あなたにとって、また社会にとって、新しいことが生まれるはずだ。
(小熊英二「監督の言葉」『首相官邸の前で』
http://www.uplink.co.jp/kanteimae/director.php
災難の経験, 地方の声, デモ
「安保法案反対」デモは東京の都心である国会前だけでなく、日本全域において多様な形で持続している。韓国のマスコミは主に東京の国会前のデモに焦点を合わせているが、全国の所々、小さな町毎に開かれるデモの存在もまた重要である。日本の社会においてデモが民主主義の重要な形として再び登場したのは、まさに東日本大地震と福島原子力発電所事故の経験が深く結びついている。この災難を通してさまざまな問題が提起されたのだが、災難の経験ですら東京をはじめとする中央の声に専有されてしまうという点が強く問題視された。
2015年、数万人の群衆が集まった国会前のデモについての便りを伝える本稿において、2011年の東日本大地震と福島原子力発電所事故についての語りへと遡るのはこうした理由からである。小熊英二の『首相官邸の前で』はデモを迷惑なものと考え、人々の暗黙的な合意に黙々とつき従うことに慣れていた人びと(日本語の「空気を読む」という表現はこうした社会的雰囲気を典型的に内包している)がどうやってデモへ踏み出していったかについての歴史的記録である。『首相官邸の前で』は日本の社会においてこの何年間デモを持続し、デモを通して変えられるという雰囲気がどのように根づいたかについての研究作業でもある。
"怪談"から、”皆が知識の主体となり”まで
東日本大地震と福島原子力発電所事故以降、政府の情報統制により人々は自ら情報を集め、交換しなければならなかった。初期には被曝についての怪談(流言)が広まりもした。韓国では主にこうした怪談(流言)が広まっている。しかし、怪談(流言)だけでは生を持続することはできない。生を持続するためには、そして生き抜くためには客観的で具体的な情報が必要である。東北地方の人びとは首相官邸の前で、東京電力の前で、自ら蒐集した情報を基に具体的な要求事項と政府の対策を追及した。こうした過程を経ながらデモは、情報と知識とを分かちあい、生を持続可能とする具体的な対策を追及する場となった。こうした過程において知識は以前とは異なる形へと向かうしかなかった。否、皆が知識の主体となり、皆の知識を分かちあう場がデモの現場となったのである。
”パトスを噴出”と”知識生産と共有の場”
日本のデモの現場はそうした点でパトスを噴出する場というよりは、知識生産と共有の場となった。過去の全共闘時代の激烈なデモが知識を基盤としつつも、パトスを噴出する場であったとすれば、今日の日本のデモは皆の知識を分かちあう場となったのである。これはきわめて重要な地点である。日本のデモの現場を見物した韓国の人びとが「激しくなかった」とか「あまりに真面目だ」とかの反応を見せるのもこうした脈絡から考えてみることができる。
こうした変化を見つめ、韓国でのデモ文化やデモに対する立場を比較し考えてみもした。もちろん歴史的局面や条件が異なる韓国と日本を同一線上において比較するのは難しい。ただ日本の社会においてデモについての論議を見つめながら、デモと民主主義の関係をパトスと知識の分かちあい、急進性と持続性、単一の立場の主導性と皆の参加可能性という脈絡からもう一度論議していくくとはきわめて重要だと考えるようになった。
不安を解消するための知識の生産と共有の熱情
日本でも2011年の人々の不安、恐怖、惧れと恨みという情動により街へと進出することになった。しかしデモがパトスを噴出する場にとどまる限り、破壊された生を持続することはできない。もちろんこれは二項対立的なものではない。多くの人々がデモを通して、そしてデモを持続できるということだけでも、不安と恐怖から脱け出し、生を変化させられる新たな情動へと移行することができたと証言している。そうした点から東日本大地震以降、日本におけるデモは不安と恐怖の情動を互いに分かつことにより、かえって生を変化させ、ともに生きぬかねばならないという変化の熱情へと移行させる媒介となったと言える。そしてこうした移行から不安を解消するための知識の生産と共有の熱情が重要な役割を果たしたと見られる。
2011年8月、模索舎
東日本大地震以降、デモが始まり、人々が集い、踏み出していく過程は、そうした点から知識を生産し分かちあう術を全く異なるやり方で専有する過程でもあった。一つの場面を例に挙げてみよう。2011年8月、東京は強制節電の施行中であり、焦熱地獄のように暑かった。東京の新宿区には模索舎という古びた感じの「書店」がある。1970年代につくられた模索舎は「表現と言論活動の多様性の保障」ということを目標としている。とくに「表現・言論活動の多様性を保証するには、これを媒介するメディア・流通に多様性をもたせることが不可欠です。模索舎はこの多様性の一役を担うため、取次店を介した主要出版流通ルートに対する“もうひとつの”流通をめざし、自主流通出版物(ミニコミ)を主要に取り扱っています」。
http://(http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/
東日本大地震以前、模索舎は韓国には今はなくなった「社会科学書店」と似たような役割を果たしてきた。冷戦体制が続く韓国とは異なり日本は相対的に思想の自由が幅広く保障されてきたのは事実である。もちろん消費資本主義の力が強力な日本における思想の多様性もまた資本の力に押さえつけられてきた。それでも長い歴史をもち、どうにか「生き残ってきた」出版社、書店、ネットワークは社会の雰囲気があれこれ変化するなかでも社会の基底にしっかりと根を下ろしている。模索舎もその一つである。
東日本大地震以降、模索舎には自主出版物が爆発的に増加した。「デモのやり方」「ポスターの作り方」といったデモの基本方法を知らせてくれる小さな冊子から小さな集まりがつくった出版物が全国から殺到してきている。模索舎には1970年代スタイルの古典的な社会科学書籍や製本されて間もない昭和時代の青年についての博士論文を基にした著書と同人誌、オタクたちの小冊子、 デモにはじめて参加した人々が自らつくった上記の「デモのやり方」といった本が並んでいる。
『首相官邸の前で』にも登場する「首都圏反原発連合」のミサオ・レッドウルフもイラストレーターだった。もともと青森県の核燃料再処理事業反対運動をしていた彼女は2007年「全ての核に対して「ノーというために」」活動する非営利団体「NO NUKES MORE HEARTS」をつくることになった。イラストレーターだった彼女はこうした活動を広く知らせるためにポスターや案内状、ロゴなどをつくり、他の団体のそうした仕事をも手助けしながら、本来の仕事をやめ、活動家としての生に専念することになった。(『直接行動の力「首相官邸前抗議」 』クレヨンハウス, 2013)
”強烈なイメージ”と ”目に見えない無数の努力とネットワーク”
日本のデモに多くの人々が関心をもつことになったのは「数万人が集まった国会前のデモ」という強烈なイメージのためでもある。いつもそうであるように、こうした強烈なイメージが消え去ると人々の関心も消え去る。そうだとすれば、引き続きこうしたイメージをつくるために努力すべきなのか。それも必要なことである。しかし日本においてこの数年間のデモの歴史を見れば、実際重要なことは強烈なイメージより、持続し分かちあうための目に見えない無数の努力とネットワークだと言えるだろう。1970年代につくられた模索舎はほとんど人々の注目を浴びないまま、不思議なほどその生存を持続してきた。模索舎があったから自主出版を持続することができ、今や初めてデモに踏み出すための新たに小冊子をつくって配布したい人々は模索舎をその媒介にすることができた。もちろんネットを通じた速く手軽な流通と配布も重要な役割を果たしたが、ネットはまたそれだけ簡単に情報を消滅させる。
「生き残ってきた」ネットワークが、新たに生じた変化の熱情と流れを運び媒介する窓口となる
ほとんどの人びとの目につきもしないが、対案と社会変化を志しつつ、社会の基底に根を下ろし、どうにか耐えてきた歴史あるネットワークとメディアが、新たに生じた変化の熱情と流れを運び媒介する窓口となる。ある点では今日の日本の社会においてデモは活用できる全てのメディアと表現方法をあらたに専有し発明する場となったと言える。国籍もジャンルも超越し、声を出し、ともに興じる全ての道具をデモの表現ジャンルとして発明した高円寺グループのデモもまた、こうした事例だと言えるだろう。
多様なロゴと個性あふれるデモ方式によりあらためて注目を集めているシールズは、実際こうした「デモ」の歴史のなかで形づくられたものである。最近シールズのデモの方法と考えを分かちあい討論する書籍が大挙出版されている。書店には「シールズによる選書」コーナーが用意されてもいる。このようにメディアと表現方法をあらたに発明しながらデモは持続している。
SEALDs 書架, 立命館大の本屋
3.後戻りと踏み出し:限りない連結の発明
どうかすると以上の話は日本専門家やどなたかには臨時の訪問者で異邦人である筆者の誇張された希望的な語りと映ることもあろう。多分そうかも知れない。私が長くもない時間のなか、出会ったのは日本の人や日本の社会というよりは「出口のない状況においてただ自分なりに全力を尽くしている人びと」だったからである。
そしてそれは上で語ったことのように私の経緯と状況とを編んで書いた語りのかけらに過ぎない。失敗の連続、強固な体制による咀嚼のやむことのない反復、関係の絶望と自らへの悔恨と自虐、私の経緯はそのように足踏みをしている。今や長くもない日本滞留を終え、帰る日が近づいている。果たして帰って何ができるのかという絶望的な質問は引き続きカッコに入れてきた。その代わり全力を尽くしている人の周辺をのぞき見て、希望と「対案」を求めて一人でも多くの人に会おうと努めてきた。それゆえ、ある人の話も私にはあまりに大きく切実に映った。そうやって全力を尽くしている人びとの話を聞き、交わし、また伝えながらはじめて私の経緯も異なる語りへと踏み出すことができるのではないだろうか。
自らが歴史をつくるという自意識を表には出さないが、結局そうやって再び歴史を書いていく人々、彼らの語りを通して初めて歴史とはたんにめぐりゆくものではなく、踏み出していくものだという小さな結末を反芻してみる。
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